明日の君へ

別居生活の記録

入居二年雑感

この部屋を借りてここに移り住んで二年が経った。便利な立地で買い物や移動に都合が良く快適な住まいと感じる。不満は殆ど無い。
この時間の経過をはや二年と云うべきか、或いは未だ二年と云うべきか。悩ましいところだが今改めて思い出そうとしても最初の一年のことはあまり記憶に残ってはおらず、この日記頼りな部分が多い。
やはり「はや二年」なのだろう。

この二年を通じて、記憶媒体としてのこの日記外で思い起こされるのはお酒との付き合い方だ。
当初はかなり節制した生活を送っていたが、夏頃より資金が回り始めたため夜の街に繰り出すようになった。まだコロナの暗鬱とした帳が街を取り巻いており大手を振って呑み歩ける状況ではなかったが昔馴染みの店はひっそりと営業を続けてくれていた。年が明け、冬季五輪の中継を観ながら店の常連達と呑む酒はざらついた心を大いに癒してくれたものである。

その時期に常連客や店舗関係者の間で幾つかの訃報や大病の話が相次いで出てきていた。しかしこの時はどのような人々の話なのかも分からなかったため心に留め置く程度だったのが思い起こされる。

思えばこれが今に通じる道の始まりだったのかも知れない。何となれば、その時の心の片隅にあった小さな思いに興味が惹起され、後の数々の出逢いがもたらされることに繋がったわけであるので。

そして六月以降は現在に至るまで数多の手痛い失敗を喫しつつも痛飲を重ね続けている。ただ結果的に大事に至ることなく息災に過ごせているのは随所で運が味方してくれたからであり僥倖というより他ない。それくらい酷い呑み方をしている。まあ、失うばかりではなく得られるものも多いのではあるけれど。

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凡そ酒などというものは人間関係の潤滑油として程々に扱っておけば無難なのであって、酔い痴れるために呑むなどというのはまさしく愚か者の所業である。理性ではそう思いつつもあれ程までに呑んでしまうのは何故なのだろう。

嫌なことを忘れてしまいたい?
淋しい現実から逃避したい?

それはあるだろう。

ただ付け加えるのであれば、酒場で繰り広げられる人間模様の楽しみだ。
なるほど、これらは確かに小説より余程奇なるものであり、人の営みの生気を直接的に感じられるものだ。酒場はあたかも一つの劇場のような領域として展開され、観客だった筈の自分が気付けば演者の一角として組み込まれている。

ああ、今自分はここに居る、確かに生きている。

そう実感する。

酒が暴き出す剥き出しの自分を受け止めてくれる名優たちの温かさ。抱擁力。
自分の歪な人間性を鋭敏に察知され叱責される厳しさ。

一つ一つが小職の勉強の糧でありときには反省の糧となっている(反省が生かされるかどうかは別としても)。

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はてさて、酒との付き合いは今後どのようになっていくのか。

流転する我が人生の場面場面でこれまでも色々な呑み方があったものだが、今この瞬間の雑感として本稿を記す。
いつか時が経ち、必ずそうなるであろう呑めなくなった自分はこれを読んでどう思うのか。

二度と戻らぬ過ぎ去りし日々を、二度と会えない人々を、懐かしく思い返しては苦笑しているであろうことを願う。