明日の君へ

別居生活の記録

無題

2019年9月、山梨県道志村のキャンプ場で女児が行方不明になる事件があったがそれから2年数ヶ月の時間が経って遺骨と遺留品の一部が発見された。そして今日、DNA型鑑定の結果、不明女児の遺骨であると断定されるに至った。

我が子の帰りを信じ、待ち続けた家族の悲嘆を思うと言葉にならない。

もしも同じことがわたしや娘の身に起こっていたらどうか?想像すると恐ろしい。
きっと半狂乱になるに違いない。


—— この考えは、正当だ
真っ当で、ごく当たり前の着想で、極めて普通の思考だ まずはそこに安堵する——

では振り返り、わたしは彼女に何をしたのか?

 些細なことで叱責を加え、懲罰を科した。きっかけは生活習慣や習い事、勉強にまつわる親への反発、反抗的態度と言動などだが、今思えば年齢相応の普通のことだったと思う。

 彼女にとってわたしは、姿を目にするたび精神を攻撃される自動砲台でしかなかったことだろう。本来は一番安らぐ環境であるべき家庭にそれが設置されたのだ。

 ではもしあの日に、あの頃に、小学1年生でいなくなってしまった娘が奇跡的に戻ってきてくれたとしたら同じことをしたのか?

 絶対にしない。

 わたしが間違っていたことは明白だ。

 結局、懲罰などただの暴力でしかないのだ。加害側は瞬間的にとてつもなくそうした行為を倫理的にも論理的にも自己正当化しているのだが、全くプラスに働かないどころかマイナスでしかないし、そうした正当化は後日崩れる。今ならばそれがよくわかる。

よかった。
本当によかった。

命を絶つ前に気付けてよかった。
取り返しのつかない結末を招いたことへの慚愧の念にどれほど苛まれようと、それでもやっぱり生きていてくれればそれでいい。

生きていてさえいてくれれば、この生活がどれほど長引こうと構わない。
暗い夜に悲しみ、淋しさ、孤独、後悔がどれほどわたしを襲おうとも、なすすべもなく子を亡くした親に比べれば大したものではない。