明日の君へ

別居生活の記録

自分探し

とある場所に格納されている過去の日記を読む。
2005年に始まり以後十有余年に渡って書き綴られている。楽しいことや皮肉めいたこと、驚いたことや当時の知見における考察記など様々だが、概して楽そうな雰囲気を感じる。

振り返ると如何に無計画に生きてきたかを思い知らされる。行き当たりばったりでここまでこれたのは我ながら大したものだと思う一方、もう少しなんとかならなかったのかと感じるところも多々あり複雑な気持ちが湧いてくる。

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日々を生きていくなか、人のとる行動は凡そ一挙手一投足に至るまでそのほぼ全てに「習慣」の成分が含まれると言っても言い過ぎではないのではないか。

階段を降りるときに右足から踏み出したかどうか。自動改札を通る際のICカードの認識のさせ方、電車の混み具合に応じた振る舞い方。

こうした習慣の積み重ねで日々の行動がなされ、考え方、感じ方によって意思決定がなされ、わたしの人生は良くも悪くも動かされてきた。そして今後も同様に動いていくのだろうと思う。

最近youtubeで興味深い動画を視聴した。
去る高僧が視聴者から寄せられた悩み相談に仏教の世界観を交えてアドバイスやエールを送るというシリーズである。その中で『自分』がないという悩みに対して

「確固たる自分などというものはない。常に周囲との関係性の中でいわゆる『自分』というようなものが構築されるだけであって、それは流動的なものである」

という言葉があった。
この言葉に続き、周囲が変われば「自分」もまた変わるという。

確かにその通りだ。

よい人生を送るために身につけたい習慣、などというと大袈裟でまるで自己啓発本のタイトルのようだが、悪い人生を送らないようにするために排除すべき習慣というものもまた別に存在するはずだ。

そしてそれは個々人によって異なるだろうし広く普遍化したら究極的には宗教家の生活のようになってしまうのかもしれない。勿論それは望むところではない。

しかし今わたしの視野で認識可能な明らかによくない自らの習慣を是正する勇気と根気強さを持とうとは思う。環境を変えることも可能な範囲で実践しようと思う。
うまくいかないにせよ、やってみよう。