明日の君へ

別居生活の記録

5月の終わりに

今月が終わる。

世の中的には緊急事態宣言の延長が発令され依然として新型コロナウイルス感染の収束には至らない状況だが、正直どうでもよいし事実うまく行ってないようだ。

 

生活は安定しており早寝早起きの習慣も続いている。娯楽もそれなりにあり、この時期を利用して前向きに何かに取り組もうという心持ちになってきたのはよかった。

 

家の方は未だ先行きが見通せないが、最悪な状況は脱しつつあると願いたい。3、4、5月と既に3ヶ月が経過したのだがまだ3ヶ月しか経ってない思いもある。子供の長い一生にこの時期がどういう影響を及ぼすのか?不安はあるがじっと耐えるしかないし、子供もこのままではいけないという気持ちや先行きに対する不安と、きっと戦っていることだろう。

 

頑張れ。

5月16日に寄せて

今年は梅雨入りが早まるという。

連休から梅雨入りまでの僅かな時期が一年で最も好きな季節であるだけに残念な年となるようだ。ただ、期間が長ければいいというわけでもないしその時期その時期で移ろいゆく季節に心を重ねてなるべくあくせくせずに生活したいものだ。

 

3月から4月にかけて新しい生活をセットアップするためにそれなりの支出があったが今月末の支払いで一通りといったところ。恐らくしばらくは大きな支払いは無くなるだろう。家で過ごしやすくする為の細々とした買い物は続くかもしれないが。

 

まずは夏服の用意。3月に着のみ着のままで家を出たため夏用の衣類の準備がない。6月になったら一通り買い揃えなければならない。冬服はクリーニングに出して涼しくなるまでしまっておくのだが、その為の収納も必要。本格的に暑くなる前にサーキュレーターなど暑さ対策も。

 

改めて思う。

住環境には本当に助けられている。生活に必要なものが容易に手に入る。移動のストレスもない。値段相応かそれ以上のメリットがあると感じる。精神の安定のためには生活が容易な方がよいようだ。あとは収支バランスを安定させるために、家計の監視は継続する。貯蓄もできればこれまでのペースを維持したい。

 

色々新しいことを始めるにはいい機会だ。

残る人生があと何年か分からないが退屈しないように準備しないといけない。

 

今日という一日

つつがなく一日を終えて眠りにつく。

Youtubeで包丁などの刃物を再生させる動画に見入る。道具がまた使える状態になっていく様子がなんとも言えない満足感を与えてくれた。

 

自分は壊れた家庭に育っていない。

そのため壊れた家庭環境が子供の成長にどういった影響を与えるかが分からない。いい影響ではないだろう。しかし自分が家庭にいることが子供の成長にマイナスとなることが指摘された今、どちらがより大きなマイナスとなるかの比較でしかなく、今現在の状態につながっている。

 

徹底的に悪役に徹するのが良いのか。

ある程度付かず離れずの距離感を保つのが良いのか。

 

壊れかけの家庭が元に戻る道はあるのだろうか。錆びて刃こぼれした刃物が輝きを取り戻し切れ味を思い出すかのように。

番外編

昨日から一連の家内とのLINEのやりとりを経て思うことを記す。

 

きっと私は物凄く傷ついているのだ。

 

家族とのやりとりで今の家族の様子などを知ることが辛い。家内はきっと親切や善意でしてくれていることなのだと理解はできるが理屈ではなく胸が苦しくなる。正常な思考でいられなくなる。

 

でも何故なのだろう?全体がプラスになればいいと割り切っているはずなのに自分ばかりが割を食っている気になってくる。そうではなく皆がそれぞれモヤモヤした思いを抱いて生活しているはずなのに。

 

拭い去ることのできない染みのような感情を持て余している。はっきりと、明らかに。

 

酷い言葉を投げかけてしまいそうになり、思い止まった。言葉の応酬を繰り返しても事態が好転することはないのだ。離れて暮らす時間を一日ずつ積み重ねることのみが状況を変えうる唯一の要素なのだ。

48日目

今日も心の重荷を解くために言葉を紡ぐことにする。


新居の装備は概ね整った。

簡単な食事の支度も可能だし、洗濯物も容易になり衣食に不便を感じることもない。


資金面でも来月からは少し収入が増える見込みで、さらに言えば7月以降は収支はほぼ以前と変わらないレベルとなるだろう。


しかし一体何を目指して生きていけばいいのかという漠然とした不安は拭えない。いつも虚無感が心を占めている。最も単純な言葉で言えば、つまり死ぬために生きている。


充足感と共に生きられている人は幸いである。何故ならば虚無と共に生きる苦しさを味わうことがないのだから。


今日は陽光明明たる暖かな春の1日であった。気象報道によれば六月並みの気温とか。やがて梅雨を経て夏が来ることを予感させる一年で最も好きな季節だ。季節の移ろいのスピード感が色々なポジティブな変化を起こし幸運や幸福の訪れを予感させるはずの季節だ。


なのにどうしてこうも心が晴れないのだろう。

分厚く高い壁によって外界と隔絶された色彩のない領域にうずくまっている、そんな一日だった。

一ヶ月

今週末で別居からまる一ヶ月が経過した。少しずつ生活の安定化を目指しているところだが、まだまだ進捗は3割といったところか。


面白いことにここに越してきて最初に揃えたのはタオルと掃除用具だった(寝具は別として)。


今日もフローリングの掃除をしたが、かつて一人暮らししていた頃はこれほど部屋の綺麗さにこだわってなかった気がするので不思議なものである。

これくらいの面積なら掃除機なしでもこまめに掃き掃除するだけでほとんど汚れないので掃除機はしばらくは買わないだろうと思われる。


火曜金曜は燃えるゴミ

水曜は資源ゴミ

土曜はワレモノ類


掃除をすると心が落ち着く仕様のようである。

4月1日

春爛漫、新入職員や新入生の人々が期待と不安の入り混じった新鮮な面持ちで職場を練り歩く。そんないつもの4月初日だが私といえば今までにない新年度を迎えている。


新居生活ももうすぐ1週間となり少し慣れてきた。家財道具も僅かずつではあるが充実しつつあり、寝るには困らない状態、さらに冷蔵庫や洗濯機が揃えばほぼ万全の構えとなる。


仕事に精を出していると妙な考えが浮かぶことがほとんどない。ただ、こうして一人で家にいると色々と考えてしまうことは避けられない。なので、極力酒を呑んでさっさと寝てしまうようにしているが、そうもいかない日もある。


行く末の不安ということではないが、歩んできた道に対する後悔に近い感情、そして事態を好転させられなかった無力感、そういったマイナスの感情に心が占められそうになることがある。

何か一つでもうまく行くことが有れば救いもあるというものだが、我が人生そううまくはできていない。


やることなすことうまくいかず、漫然と時を過ごすことによる絶望感。もがいたとしても何も変わらないだろうという虚無感。


仮に今この瞬間に人生が終わっても「ああそうか、これで終わりなのだな」とすんなり考えるに違いない。しかしそう簡単には終われないこともわかっている。易々と許してもらえるはずがない。


まさにここは心の牢獄だ。


これからの時間を少しでも明るいものにするために何ができるのだろうか--そんなことを考えつつ眠りにつくことにする。明日は初めての業務内容なので睡眠時間を確保しなければいけないのだ。