明日の君へ

別居生活の記録

入居一年経過

今の家に借り住まいを始め一年が経った。一年前に日記で書いた内容を見返したが、自分の先読みの見立てというものが如何に甘いかということを身に染みて思い知った。
先読みというものはどれほど悲観的であったとしても本質的に希望的観測に過ぎないのだ。



話変わってコミュニティへの参入について。

既存のコミュニティに新規参入するケースとコミュニティ自体が未成熟なところから構築されるケースが考えられる。

中学生が新しいクラスで活動を始めるケースは後者だが部活動の入部では前者だろう。また転校生は前者だし、新しい店舗立ち上げのオープニングスタッフでは後者。

新規参入者がコミュニティの既存構築を揺るがすような人材である場合、一旦は排除の圧が掛かるのが通例。この圧に揺るがず、あるいはくぐり抜けることが重要だと思われる。

・本来構築を揺るがすような者でも取るに足らないような者であるよう擬態する
・コミュニティの枢軸に利害的に食い込む
・極めて時間経過的に緩徐にコミュニティに馴染む

等。

これが上手くないと最終的には排除の圧に屈することとなる。もちろん、そもそもの前提として自らの参入が既存コミュニティの構築に影響与えないのならばこうしたことを考えることもない筈ではあるが投じた石が湖面に波紋を生じるように何かしらの影響はあるものである。用心するに越したことはないし、立場換えて迎え入れる側であれば何かしらの用意もできるだろう。

4月がやって来る。

一年経過

家を出てこの日記を始めてから一年が経った。
考えてみれば振り返るほどの厚みのある時間ではなかった。一年が過ぎたという感慨もなく、こうやって人間は段々と歳をとり死んで行くんだろうなと感じている。

夢や希望はない。
ただ死なないから生きている。
毎日を過ごす。

そうして一日が暮れゆくと、また明日がやってくる。

目標があるとすれば地に足をつけてどっしりと生きていこうということくらいか。

♪ ピアノ協奏曲第1番 Op.11
第2楽章 Romanze, Larghetto
F. Chopin

2022年始まり

今年の冬は寒さが厳しい。
先日降った雪は今日殆ど解けてしまい、日当たりの悪い公園に僅かに痕跡を残すのみとなっている。

日記に書くこともなく、心も安定していると思う。

何か成し遂げないといけないというような目標はなく、一日を無事に終えることに喜びを感じている。一週間のスケジュールは固定され急に予定外のことが生じて対応に追われるようなこともない。一ヶ月単位で見れば掃除や洗濯など、自分が決めた通りに身の回りのことをこなしており、家は綺麗に保たれてる。

とりたてて欲しい物もなく、満ち足りている。

飢えも渇きもなく暑さ寒さに苦しめられることはない。

なんという幸福!
多くを望むから満たされない苦しみが生じる。

「欲張らない」
とある仏閣の境内に、参拝者が祈る場所から目につくように貼ってあった貼り紙が思い起こされる。
わたしの祈りはただ一つのみ。

10月1日(じゅうがついっぴ)

3月に家を出て7ヶ月が過ぎた。
張り詰めていた気持ちは随分と和らぎ、安穏とした生活を過ごしている。

家のことを思うと胸が苦しくなるのは相変わらずであるものの、そうした感情に呑み込まれることは減ってきている。

人生の浮き沈みを40前後にして知り今も試練の只中にあるけれど、一度受け入れてしまえば存外当たり前のことと捉えられるようである。

世の中には砂漠に水を撒くようなことを諦めることなく続けている人が居て、そうした活動というものは本当に人を勇気づけるものだと感じる。そしてそういう人が最後には評価を得て、賞賛されるべきであるし、自分もそうありたい。

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ふと感じたのだが、もしかすると私は、本当は畑仕事をしたり釣りをしたり、雨が降れば日がな音楽を奏で、酒をのんでは歌ったりする生活を欲しているのではないか。

気位が高くて、馬鹿にされることを嫌い、激しく攻撃的な内面を有する反面、いや有するが故に、それを覆い隠す仮面を後天的に身につけたが、本当は驚くほどのんびりした呑気でマイペースな性格なのではないか。何故にこうも歪な人間になった?

子供には可哀想なことをした。
人生の浮き沈みを、ともすれば彼女の云う通り、ぶつけてしまっていたのかも知れない。
知らず知らずのうちに。
申し訳ないことだ。

時を戻すことはできない。
失われた時を求めてもせんなきことではあるが、こうして文字に起こすと元来前を向いて猛進する性格ではないことを改めて思い知らされる。

台風がきているようだ。
明日の出張に影響しなければいいのだが。

♪ 幻想曲 op.49
F. Chopin

晩夏の折に

3月より始まった別居生活は今月末をもって6ヶ月経過となる。一つの区切りではあるが、先の見通しは未だ立たず、もやもやした心持ちは相変わらずの状態だ。

とはいえ、つつがなく仕事に取り組めているのは何よりだ。資金面でも軌道に乗っており貯蓄も順調にできている。職場さえ安定すれば言うことはない。この先転勤となることも考えられるが、今となってはどこへなりと飛ばしてくれという気持ちである。

多くは望まない。

ぶつけようのない怒り、無力感、やるせなさや虚無感の入り混じった感情を払拭する術はあるのか。

♪ バラード第4番 op.52
F. Chopin

6月の終わりに

“多くの天才が死んでいく、自分がどれほどの才気を持つかも知らず、他人にも見出されることなく”


マーク・トウェインの言葉だそうだ。

私は子供の未来を案じ、人並みの幸せを願い、人並みの振る舞いを求めた。

しかしそれは、人にはない子供の翼を、普通と違うからというだけの理由でもぎ取る行いだった。

結果子供の心は壊れ、私は家庭を壊し、家庭を後にした。

独りで4ヶ月生活して気付いた多くのことはただ一言で言えば「慚愧」。

周囲の多くの人の優しさや思いやりの中に生き、救いに手に拾い上げられ、其れらに甘え甘えて生きているだけの人間が、我が子にしたことは一体全体何だったのか。

情けない。
言葉を失なうほどにも。

厳然たることとして、過ぎ去った時は戻らず、吐いた言葉や振る舞いは取り戻せない。いくら正当化しようにも、いや、正当化しようとすればするほど、その現実が否応もなく心に迫り、過ちをはっきりと鮮明に浮かび上がらせる。

私は馬鹿者だった。愚かなか弱い人間だった。
そしてそれは今後も変わらないだろう。変わるはずもないだろう。

とても悲しいことだが。

♪ 歌曲集「ミルテの花」より第1曲「君に捧ぐ」
R. Schumann / F. Liszt

孤独を愛する水無月

5月の段階で早まる予報だった梅雨入りは結局は例年より少し遅れてこの時期になった。車窓より望む重畳する山々に掛かる靄は新緑の生命力と相まり荘厳とすら云える光景を作り上げている。

水は命の源であり、赦しであり、そして祈りなのだと思わずにはいられない。

 

今月は月末の集計が少し楽しみだ。5月から仕事を増やした結果が今月の収支となって反映されるため収入は増えて、他方、一人暮らしセットアップの際の諸費用が今月で概ね償還されるため。今月の金銭出納こそがこの生活の本来の姿を反映しているはずだ。

 

仕事を増やした結果休日は2週に一回の日曜日のみとなってしまったが今のところは体調も崩さず生活を保てている。この2週に一度の日曜日はとても大切なものなので、誰にも邪魔されたくない。

 

実際のところ別居一人暮らしはかなり孤独だと思う。ただそれが不愉快な感じかというとそうでもなく、生活を全て自分でコントロールできる楽しさがある。家族と一緒に生活しているとどうしても家族の生活に引っ張られる部分が出てきてしまう。それは勿論この上なく幸せなことなのだと思うが、静謐な孤独の中自分の心と向き合うことの大切さもまた感じている。

 

 

 

♪ 「詩的で宗教的な調べ」より第3曲「孤独の中の神の祝福」F. Liszt